江戸時代の医師は、地位の高い順に幕府の医師・朝廷の医師・大名や旗本の医師・町医者・村医者に分かれていた。
しかし、町医者でも腕さえ良ければ幕府に取り立てられることもあり、実力次第で身分制度を越えて立身出世できることもあった。

当時は医師に免許がいらず、「にわか医者、三丁目にて見た男」(柳樽拾遺・寛政8年)という川柳があり、日本橋三丁目の生薬屋で働いていた男が医者に早変わりする時代で、青州のように腕の良い医者は重宝されていた。
専門による医師の分類としては、「おでき」などを治療する「瘍医(おうい)」や刀傷を治療する「金(きん)創(そう)医」は「外科」、整骨技術に長(た) けた医者は「整骨医」と呼ばれた。内科は「本道」と呼ばれ身分が高かった。青州のようにいくつかの専門を持つ医師もいたり歯医者や様々な種類の医者もいた。
当時は「鍼灸師」とは言わず「鍼医」と呼ばれ、鍼医は本道(内科)と同じく身分がとても高かった。鍼の技術は難易度が高く、修行が必要なため、鍼医は一目を置かれていた。

管鍼を考案した盲人・杉山和一は、第5代将軍の徳川綱吉の病を治して、検校(けんぎょう)(盲人組織の最高位)として絶大な権力をもっていた。
江戸時代の鍼医は、免許制度ではなく師匠の元で何年も修行して独立していくスタイルであった。
免許はなく薬局生から始めて厳しい修行を積んでいったが、一人の師匠に長く付くわけでなく数か月で師匠を替える見習いが多かったようである。
江戸期の鍼治療はほとんど往診出張が主だったようで、長く一人の師匠のところにつくこともなかった。鍼医には、疾患に応じてではなく外科・内科的な疾患も含めて様々な症状の患者が多く来た。(口コミによる信用性があった)

この時代には、解剖をしなかったので、乳ガンのように外に出るガン以外はガンだとわからず、食欲がなく案外早く死亡した人が実は今でいう胃ガンだったと いうことはあったのでは。病巣を見つけて治療するのは近代の西洋医学の考えだが、病名ではなく症状で対応していくのが江戸時代の医療であった。

古代からの治療法だった按摩は、一時期衰退していたが、江戸期に治療術として復活し日本流按摩が栄えた。盲人の職業として広まったのは鍼師と同じだが、 按摩師は鍼師ほど身分が高くなかった。夜に人とぶつからないように笛を吹いて歩きながら按摩師は患者を求めて各地を放浪していた。緒方洪庵、香月牛山や若 い医師たちもアルバイトとして按摩を行っていた。