江戸時代の流行の疾病として疱瘡(ほうそう)と梅毒が多かった。
他に疝気(せんき)(下腹部の腹痛)と癪(しゃく)(さしこみ・胃痙攣)があり、疝気は男の病、癪は女の病と言われていた。疝気は寒くなると発症しやすくなる病だが、「疝気の股火鉢」と言われ温めると緩んで締め付けられるような痛みが取れた。

手足が腫れてしまい鍼も灸も効かない患者は、祈祷師にすがった。
病気の原因を祟りとした考え方があったので、現代では問題になるが祈祷師が医療の中で活躍した。

白米が食べられるようになってから、「江戸患い」と言われた脚気にかかる人が多くなった。
白米を食べられない人はかからなかった。
第13代徳川家定、第14代德川家茂と将軍が続けて脚気で亡くなった。
明治天皇も脚気を患っていたようだ。
漢方医の遠田(とおだ)澄(ちょう)庵(あん) は上手に脚気を治して「脚気医者」と呼ばれていたが、特別な薬を用いていたわけでなく処方していたのは、小豆など身近なものだった。

江戸時代に最も多かった病として梅毒があげられる。
杉田玄白も梅毒を治せないと日記に書いており、医師の永富独嘯(ながとみどくしょう)庵(あん)が江戸、京、大阪の各地を巡ったところ「患者の10人に8人は梅毒である」と唱えていた。
漢方医の吉益東洞は、「万病一毒説」を唱えていたが、そういう病理観 を持ったのは梅毒の患者が多くて中国医学の理論が見いだせなかったのではと推測される。
当時の梅毒の治療として、スウェーデンの植物学者で医師でもある、カール・ツェンペリーが1755年に出島に赴任して水銀剤「スウィーテン水」で治療した。
梅毒への水銀治療は中国でも行われていた。
杉田玄白も間接的に水銀剤の処方を習っており、治療録には花柳街に往診していたと書かれていた。
「鍼灸真髄」(代田文誌著)には、沢田流の沢田健先生が「背部八穴」と称して梅 毒の治療をしていたようである。

江戸時代の精神病の患者には、地域によっては色々だが周囲に危害を加えるような社会的に問題のある精神病患者にはかなりの荒治療を行っていた。
山に連れて 行き滝の水に打たせたり、山の集落にいる屈強な男性が女性の精神病患者を椅子にくくりつけて何人かで椅子ごと持って行って水に打たせたりしていた。