江戸時代の庶民の生活には、様々な行事や風習が位置づけられていて養生の考え方も密接に関わりがあった。
現代の生活と違うのは、暦の意味付けがあった。

お灸に関しても「今日は体のここに人神が宿っているのでお灸はしない」などがあった。
旧暦の2月2日と8月2日は必ず灸をすえていたように、暦は生活の中で リズムを作るのに大切にされていた。
端午の節句には菖蒲やヨモギを家の門に吊るしたり(ヨモギや菖蒲は邪鬼を追い払う力があると考えられていた)菖蒲湯に浸かったりした。
60日に一度廻って来る庚申(こうじん)の日には人間の体内にいるという三尸虫を捨てに行ってその虫が天帝に自分の悪事を報告しに行くの を防ぐために夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習もあった。

食べ物も「5月には初ガツオ」のように季節に応じた物を口にしていた。
現代のように季節外れの物が簡単に入るのではなく、夏になれば夏の野菜、春になれば 春の野菜と季節の食べ物と生活に密接に関わってきた。

生活の知恵として「食い合わせ」が伝承されていた。「スイカと天ぷら」「梅干しとウナギ」など・・・
中国では、今も五味として「今日は○○を多く食べたから夜には××を」というふうに現在でも生活の知恵がある。
自分の体質を分析するための言葉と対応する五味があり、「今日は○○を食べないといけない」「熱を冷ます物を食べないといけない」というのが生活の中で生きている。

江戸終期にはオランダ医学の書物が入ってきたが、栄養素に対して考え方がかなり変化してきた。欧米人の食事が理想化されて日本人に伝えられ、牛乳を飲んだり明治時代になると肉も食べた。
江戸時代の後期の幕臣で医師の松本良順も牛乳の効用を説いていた。

肉食に関しては、江戸期にまったくなかったわけでなく幕末になると江戸の隅田川の対岸に「ももんじゃ屋」(現在も営業)があり、イノシシのぼたん鍋や馬肉のさくら鍋などをこっそり食べさせる店が例外的にあったが客も後ろめたい気持ちで食べていたようである。

明治維新になって福沢諭吉が「肉を食せ」とか明治天皇も牛肉を食していた影響か牛鍋屋が一気に流行した。
「鍼灸聚英」 養生訓の書物としては貝原(かいばら)益軒(えきけん)の「養生訓」が有名だが、江戸後期から養生書が一般庶民にも普及してきた。食事や房 事を節制することや適正な衣服をまとい日常動作を規制正しく行うことや家屋の配置や季節との関わりなどが書かれていて慎重に生活することを奨励していた。
町の庄屋が町民に貸出したりして流通していた。田舎の方では、庄屋や医者の家に置いてあり文字が読めない百姓たちに読んで聞かせていた。

李(り)東垣(とうえん)の「脾胃論」など中国の医学書からの引用が多いが、益軒なりの改変の仕方があった。例えば中国の「千金方(せんきんほう)」で は人間の持つあらゆる感情や欲望が少ない状態でバランスが取れているのが理想的な状態だとして「喜び・楽しみ」などポジティブなものも少なめにするように と書かれていた。
益軒は食べ物をはじめ町民が豊かになりつつある時期だったので、過剰にならぬよう中国とは違う日本化された養生になっていた。すなわち人 間の欲望をある程度許容した形に改変したのであった。

養生訓のお灸については、「千金方」「明堂灸経」「鍼灸聚英」など様々な古典から引用されていた。
たとえば「鍼灸聚英」に記載されている禁灸日の考え方 などには益軒自身の観点から批判している。
江戸終期に成立した「広益秘事大全」も19世紀に入ってから日常書として使われた養生書で、食事とお灸の話が書かれている。
騎(き)竹馬(ちくば)の灸などマニアックなお灸の話も記載されていてお灸が盛んに行われていたことを示す文献であった。

また養生書というより看護書であるが「病家須治」に「天然の治ろうとする力を重視するべきだ」と書かれていて、よく何気なく「自然治癒力を助ける」と言うがこれに元ずく根拠があったのである。