お灸は自分ですえることができるため「灸医」はおらず、最もポピュラーな医療として一般庶民にまで浸透していた。
自宅で「この日には必ずお灸をすえる」と決めてまさに予防医学として行っていて現代でいえばサプリメントのような位置づけだった。

ほとんど往診だった鍼に対して灸には「灸所」という場所がいくつかあった。
お寺などにあった灸所では、お灸をしてもらうよりも灸点を下してもらうことが 多かった。1690年から日本に2年間滞在したドイツの医師のケンペルの記録によると、旅の街道ではどこにお灸をすえたらよいのかチャートにした「灸所 (きゅうしょ)鑑(かがみ)」が売られていた。
人々はそれを買って学んで灸をすえていた。

灸の大家・深谷伊三郎先生の文献によるとお染久松のお芝居で、野崎 村の段に久作が足三里にお灸をする場面があり、間違ってお光が頭にお灸をしてしまい笑いをとる場面があり、こういう芝居を通して江戸の人たちはみんな足三里を知っていた。

「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴も「玄同放言」で足三里にお灸をすえて194歳まで長生きした百姓の万平のエピソードを紹介しており 自身も結構お灸をしていた。俳人・松尾芭蕉が旅中に毎朝足三里にお灸をすえていたことは有名であるが、「千金翼方」では「30歳以上で頭に灸をするときは 40歳で足三里にもお灸をしないと気が頭に上って目が見えなくなる」書いてあり、それが後の「外台秘要」では「人、四十にして三里に灸せざれば目暗きな り」書かれてあり、文章の最初の「灸頭」が抜けていた。

それ以後「年をとったら三里の灸をしなければならない」と伝わってしまったがもともと足三里の灸は のぼせを下げるための意味付けが強かった。